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■第73話 「軽井沢に住む」 2012年8月16日
「なぜ軽井沢に住んでいるのか」と、理由を問われたとしたら・・・。
実は私自身、よくわからないところがあります。
私とパートナーは、それぞれが、豊かな自然と穏やかな気候風土に恵まれた土地で生まれ、文化的にも住みやすい環境で育ちました。
私は那覇市の中心地でのびのびと育った世間知らずの子供でしたので、日本全国どこでも、自分の生まれ育った環境と同じように便利で住みやすく人が親切な場所であろうと、きわめて楽観的に考えていました。
東京の大学に進学し、就職、結婚してからも東京で暮らす環境はとても快適でした。
2003年に不思議な縁に導かれるように、たまたま軽井沢を訪れ、気に入って何度も往き来するようになってから1ヶ月足らずの間に、
利便性がよく自然豊かな場所に、軽井沢の区画としては大きくはない住宅地サイズの土地を買うことを決めました。
そのときは、いつか建物を建てようという漠然とした想いしかありませんでした。しかし勢いは止まらず、
土地を買った1ヶ月後には会社をつくり、すぐにこの場所に自宅兼オフィスを建てることを決めました。
2004年から軽井沢を拠点とした生活がはじまると、日を追うごとにこの地が好きになり、時間を見つけては町のすみずみまで探検するようになりました。
2007年には、ようやく庭づくりのためのソフィアート・ガーデンの土地に巡り会い、ますます軽井沢の魅力に目覚める日々を重ね、今に至ります。
それまで軽井沢という土地には縁もゆかりも関心もなく、訪れたこともなく、混んでいる観光地という程度の認識でしたので、とりたてて魅力を感じたこともありませんでした。
もし、あの時、訪れることがなければ、おそらく一生縁のない土地だったのでしょう。偶然とは不思議なものです。
2003年の頃、
私は勤め先を退職して2年ほど、純粋に学びたい一心からパートナーの出身大学で大学生、院生に混じって懸命に学び
、パートナーはコンサルティングの会社で夜中まで働く日々を送っていました。昼夜問わずハードに働くパートナーの健康を気遣い、夜中12時頃に会社まで私が迎えに行って、一緒に帰宅することもしばしばでした。
毎日が充実していましたし、仕事も勉強も波に乗っていました。体力もあり元気いっぱいで、難しい仕事や勉強にチャレンジする困難はそれなりにあるものの、特段の不満も心配もなく、当時、パートナーと私は仕事と勉強に打ち込みながら今後の生き方の将来像をぼんやりと思い描いていました。
そんなある日のこと、突然、知人の訃報に接しました。年齢は一回りほど上で、仕事で大変お世話になった方でした。特に、パートナーにとっては就職してからの最初の上司であり、仕事を変わってからも、大事な節目で不思議な縁を感じさせる方でした。
私がパートナーの仕事の終わりを待って夜中まで喫茶店で勉強していたところ、職場が近くにあるその方も偶然店に入ってこられました。昔から猛烈に仕事に打ち込む方でしたので、夜遅くまでお忙しいのだなあ、と思ったのを覚えています。その時は軽く挨拶をしただけでしたが、最後にお会いしてから日も浅く、訃報には正直驚きました。
そんなふうに、先日まで目の前に居た人が、今はもう居ない・・・。
言いようのない無常観に包まれ、パートナーと私は少し気が滅入ってしまいました。ふと、心の声がかすかに聞こえました。「人の命は露のようなものだから、本当にやりたいことに、今、ここで、ただちに向きあう生き方をしなければ」
やりたいと思っていることがあるのに、忙しいからあとでやろう、いつか暇になったらやりたい、と先延ばしする間に、命の朝露ははかなく消えてしまうことに気がつき、落ち着かない気持ちになりました。
告別式を控えた週末のこと、気晴らしに出かけようと、なぜか軽井沢を行き先に選び、レンタカーを借りて(当時車は保有しておりませんでしたので)、カーナビゲーションを頼りに初めて軽井沢に訪れることになりました。それまで軽井沢がどこにあるのかも知らず、どのようにしていくのか見当もつきませんでした。出かける直前にそそくさとインターネットで調べて最初に見つかったペンションに電話し、その晩の宿泊先を確保しました。
カーナビに案内され借宿(かりやど)地区にあるそのペンションに到着したのは夜中で、遅い時刻の到着を宿の人に詫びつつ宿泊しました。
都会で久しく経験したことのない、夜の闇の濃さに驚きました。子供の頃に石垣島で体験した、漆黒の闇と満天の星空が心の中に蘇ります。
翌朝は日差しがとても明るくさわやかで、ペンションの簡単な朝食がとてもおいしく感じました。
春先の軽井沢は人影もまばらで、あたりを散歩すると美しい野鳥の声が楽しげに響きます。森の良い香りがする冷たい空気に包まれて気分も良く、青空を背景にくっきりと白い稜線を輝かせる雄大な浅間山が視界いっぱいに迫り、散歩道には色鮮やかな雄のキジがのんびりと歩いています。いつしか、昨日までの滅入った気持ちは、すっきりと消え去っていました。
その時のことは
第3話「木の香り」
にも書きましたが、わたしどもにとって軽井沢との出会いは、誰もいない春先の静かな風景でした。心を洗う清い水のような、その不思議な魅力に惹かれ、休みのたびに立て続けに訪れるようになりました。
予備知識もなく初めて軽井沢に訪れた3月末は、ノーマルタイヤの車でしたが、幸い雪も氷もなく安全でした。
しかし2回目の訪問では4月だというのに軽井沢では大雪に見舞われ、親切な人に凍結の少ない道を教えてもらったりして、なんとか無事に帰りました。
東京のレンタカー会社にとってはその時期はノーマルタイヤが標準であるとはいえ、今思うと、そんな無防備な装備で寒冷地に出かけた当時の自分たちの姿は、軽率だったと思います。
2度目の訪問で出会った不動産会社では、偶然、社長がパートナーと同じ出身地のため話がはずみました。
社長自ら案内してくれたのが現在の住まいの土地です。
当時、私どもは、軽井沢へのあこがれや幻想を全く持ち合わせておらず、五感で感じたとおりの姿で土地の善し悪しを判断しました。自然環境はすばらしいようだし、別荘や保養所はたくさんあり、飲食店なども多いが、その実態は良くも悪くも田舎町である、という冷めた目で見ておりました。
浅間山の噴火、という自然災害のリスクもありますし、厳しい自然の中で生活ができなくなっては困ります。住む場所としては、やはり昔から人が住んでいる地域で、安全で利便性がよく、仕事に支障のない交通の便が良い場所が第一、という考えで土地を選びました。
一般に、田舎においては「人付き合い」の面で都会のような気楽さはないと言われますが、無理して他人にあわせようとすれば、その通りでしょう。
私どもは、当地(信州?)独特の慣習に戸惑うこともありますが、自他ともに無理をせず(させず)、少なくとも現役の間は自分の仕事と生活を第一に考え、地域を尊重しながらも、できる範囲で責任を果たし協力を心がければ良いと、楽観的に考えております。
生まれ故郷ではない田舎で生活するには、本当に大事なことだけに目を向け、雑音を気にしない大らかさと、心理的な距離感が必要だと思います。
ところで、軽井沢は東京など首都圏の人の別荘地所として活発に土地取引がなされる場所です。そのため、軽井沢の土地相場は景気の影響を受けやすく、一般的な田舎町とは相場の傾向が異なります。2003年当時、軽井沢の土地相場は実態の価値以上に著しく下がっており、土地の相場に若干の知識があった私どもから見て、その下落ぶりはオーバーシュートであると思いました。
実際にその後の動きを見ると、バブル以降下がり続けた軽井沢の土地の価格は2003年でいったん底を打ち、その後はミニバブルに向って反転しております。
何も知らないまま、何かに導かれるようにここに来て、直感で動き、勢いに押され、良い出会いを経て、気がついたらここに住んでいた、というのが、私どもが軽井沢に住む本当の理由です。
なんだかいい加減な人生ですが、本当なので仕方がありません。
仕事においては、事前に十分な情報収集をした上で行動する私どもですが、なぜかこうした大事な局面では、たいていこんな調子です。
直感と勢いで目の前の波に乗ってしまい、気がついたら自分でも予期しなかったおもしろいところに運ばれて来るのはいつものことです。
その結果が「今、ここで、こうしている」姿ですので、自分自身では、まあ、これでいいんじゃないか、と思っております。
ソフィアート ・ ガーデン物語
有限会社ソフィアート 長野県軽井沢町長倉 2082-4
スタッフM
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