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■第60話 「偶然と必然」 2012年7月13日
今回は偶然と必然について書いてみます。私どもがソフィアート・ガーデンの土地に出会ったプロセスをふり返るとき、どうしてもこのテーマに触れざるを得ません。
この世に生を享け、やがて還るまでの間に、たどる道は偶然なのか必然なのか、私には分かりません。
毎日の些細な選択を繰り返し、今の場所でこのひとときを迎えることができたのは、偶然の連続とも言えましょうし、自分の意思で選ぶ選択を繰り返していることにおいては必然とも言えましょう。その間で揺れ動く、と言ったほうが実感としてはしっくりします。
物事はそれを受け取る人の視点や考え方で意味が変わってきます。司馬遼太郎は、「歴史と小説」という講演において「歴史というものはないのであります。歴史は語られて初めて存在します。」と話していますが、その言葉の意味を私は、歴史は単なる史実の積み重ねではなく、それを語る人がいてはじめて存在するものであり、根底には語る人の見方や無意識の(あるいは意識的な)解釈があるという意味にうけとりました。
「すべての出来事は必然である」という考え方(信仰や思想)もありますが、全てを宿命のように受け止めてしまうと「何事も結果はあらかじめ決まっている」といういわゆる宿命論に行き着き「結局、自分が何をしたところで現実は変わらない」と投げやりになってしまいます。
必然と宿命に縛られるぐらいなら、偶然のもつおおらかさを受け入れ、主観と客観の区別をやめ(他人の目で見ることをやめ)物事を素直にありのままに見る努力をしたほうが、ずっと元気になれます。
こうした考察は10年前にレポートで書きましたので、該当箇所をいくつか書き抜いてみます。 これは
第14話「学びの時」
で以前とりあげましたが、2002年、2003年の2年間、上智大学の田中裕教授(文学部哲学科)の講義を聴講し、文献講読のゼミで任意のレポートとしてまとめたものです。レポートの全体はこちらです。
>> 科学基礎論研究レポート:ニールスボーアのいう「相補性の原理」とはいかなるものか
※PDF347KB
「主観と客観の区別が、その時点ですでに認識の対象とされているものに何らかの影響を与えざるを得ない、したがって認識する主体が客体になってしまっているという、一見矛盾に満ちた心の働きを説明するものとして相補性が使用されている。」
「事実はひとつであっても、その事実の持つ意味は多様であり、それを意味づけるのはあくまで認識の前提となっている概念や言葉であり、本来は事実の意味そのものは多様な選択の広がりをもつものである。そして、どういう観点で述べようとするかによって、その事実の持つ意味は決まってくるのである。」
「ある傾向や意味を見いだそうとする意図がある観察からは、真の姿は捉えることができないと言うことであろうか。むしろ、ありのままを全体としてとらえることで、その全体を産み出す要素の抜き差しならない関係−ニールスボーアが家紋として選んだ陰陽図における陰と陽との融合と拮抗が織り成す、変化する世界のように−を見抜くという困難をあえて求めているのではないか。そうでなければ真の姿を把握することはできない、ということなのであろうか。」
「たとえば、私は、冬の終わりに桜のつぼみが黒い幹に点々とついているのを見る。そこに芽吹く生命のいとなみを探りたいと思えば、そのつぼみを手にとってはならず、ありのままに静かに眺めるしかない。幹から離れたとたんに、つぼみは桜の花への変化を待たずに終わってしまう。また、飛ぶ鳥をとらえて、その飛ぶ働きそのものを調べようとしたとたんに、飛ぶ力は翼とともに折り畳まれて消えてしまう。変化し続けるもの、生きるものの全体をとらえるには、変化するものを止めてしまっては意味がない、ということを我々は直感的に気がついている。」
「また、ボーアは、機械論の生み出す先入観を否定している。このことは、ある出来事の意味を決定的にするものは外から与えられたシナリオではなく、時々刻々生成変化する世界全体と、その部分であるたとえば私自身のあらゆるかかわりこそが、次の世界の出来事を形作る抜き差しならない要素となり、同時に過去をも意味づけている、ということではないか。ボーアの意味する相補性の正しい理解にはまだ程遠いが、これはこれで、今を生きる私にとっては勇気づけられるメッセージである。」
大学のレポートですので、ちょっと文章が硬いですが、要するに、事実を主観と客観という区別をせずに、意図を持たずにありのままをとらえることの難しさを、ボーアから学んだわけです。そして、ここからは少しボーアの相補性から離れますが、私も含めてあらゆるものの動きは、決められたシナリオ通りのレールを走っているのではなく、未来を(そして過去さえも!)形作るものであるということを考察したわけです。10年近くたった今でも、この気づきから得られるものは大きく、私自身が困難にぶつかった時、示唆と励ましを与えてくれます。
偶然と必然を意識する場面として就職や結婚があります。どう生きるかを模索するための、キャリア形成やライフプランなどは、企業教育や学生教育におけるテーマの一つでもあります。
巷にはプランド・ハップンスタンス論(Planned Happenstance Theory)とか、セレンディピティなど、よく知られた考察や物語もあります。しかし、人のキャリアや生き方を直接のテーマとした自己啓発的なものは、私は昔から苦手です。懐疑的な性格には、科学、哲学で学んだことの方がはるかに洞察と熟考を促され、実際に生きるための力につながるようです。
私どもは「何故、今、ここに、こうしているか」を振り返ったとき「歩いている道にたまたま石が転がってきたので、邪魔だから他の道を歩いてみた」とか「散歩の途中で花が美しかったので、立ち止まって花に歩み寄っているうちに、気がついたら今の場所に来てしまった」としか言いようのないプロセスをたどっていることに気がつきます。しかし、その中で私どもらしい物事への関わりや考え方で生きるうちに、私どもにしかできないことができたことにも気づかされます。こうして結果を思い起こせば、単なる「偶然」の連続というより「必然」と呼びたくなります。
困難を無理に乗り越えようとせず、目の前に立ちはだかる壁を眺め、何を言わんとしているのかのメッセージを素直に受け取る、ということが、後で振り返ってみて、私どもにとってのよい転機になったことに気づかされます。
こちらが一所懸命に努力しているときに、邪魔や困難や苦境が行く手を阻む場合は、じつは「この先キケン!」という大事な信号を発していることがあります。
また、困難の原因となる理不尽なものに対する強い怒りが、瞬発力や根性を発揮するための原動力となって、心が穏やかなときにはとてもできないと尻込みしていたことが一気に思わぬ方法で解決することもあります。
なにも障害なく順調にことが運ぶときは、誰の目にも青信号であり、あえて立ち止まることもありませんが、赤や黄色の時こそ、じっくり立ち止まって考えることが許されます。その時は行くべき道を模索することのできる貴重な瞬間です。
私どもにとっては「邪魔者」や「立ちはだかる壁」は谷底に落ちないためのガードレールだと思って、無理に乗り越えず(乗り越えたら落ちてしまいますので)素直に避けて道を変える柔軟さを失わないように、偶然と必然の間を揺れ動くスリルを味わいながら毎日を重ねております。
ソフィアート ・ ガーデン物語
有限会社ソフィアート 長野県軽井沢町長倉 2082-4
スタッフM
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