>> ホーム
>> 会社概要
>> 事業内容
>> ソフィアートの研修
>> 代表者プロファイル
>> 研修雑感・コラム
ソフィアート・ガーデン物語
>> 序 「案内係のMです」
>> 第31話〜第40話へ
>> 第41話「巣立つ日」
>> 第42話「旬を食べる 1」
>> 第43話「旬を食べる 2」
>> 第44話「旬を食べる 3」
>> 第45話「梅雨の晴れ間」
>> 第46話「梅雨の恵み」
>> 第47話「7つの子」
>> 第48話「土の道」
>> 第49話「お茶の時間 5」
>> 第50話「花の色は」
>> 第51話〜第60話へ
>> 連絡先
>> Coffee Break
ソフィアート・ガーデン物語
>>前の物語へ
>>次の物語へ
■第42話 「旬を食べる 1 −ガーデンの小屋−」 2012年6月12日
ソフィアート・ガーデンには小さな建屋があります。メインの用途は野鳥観察小屋です。他に、サテライトオフィスとして仕事をすることもありますし、いろいろな創作活動をするためのアトリエとしても使います。そしてこの時期は、特に旬のものを調理する場として大活躍します。まずガーデンのフキ、そしてラッキョウやウメなど、旬の恵みを一年分の保存食にするための調理加工で、週末には小屋の調理場に籠もることが多くなります。
小屋はワンルームです。小さな空間の真ん中には
唯一の暖房器具であり、時には調理器具にもなる薪ストーブ
を据えております。バス・トイレなどの住宅設備は一通りあります。水道・電気・プロパンガスも使えますので、文化的な活動も可能です。思考の成熟やアイデア出し、リフレクションなどの学びの場として活用すればおもしろいと思います。
本当は薪だけで風呂や煮炊きまでまかなうつもりでしたが、それは将来の楽しみにとっておいて、とりあえずは電気・ガスという文明のエネルギーにも少しだけ頼ることにしました。(なおテレビや電話はありませんが、携帯電話等の通信はできますのでインターネットは可能です)
当初は上水も井戸を掘る予定でしたが、厳冬期は凍結する地域ですので、ポンプの故障などの面倒を考え、町の上水道を引いています。下水は軽井沢では一般的な「浄化槽」というしくみで、敷地内の施設で微生物を使って分解処理し、きれいな水に浄化した上で自分の土地に浸透させるものです。軽井沢はプロパンガスですので、都市ガスと違いますが、災害時には戸別の対応ができますので便利です。
自宅のある地域は軽井沢の中でも住宅地なので、2004年に引っ越した当初から土地には上下水道が引かれ、ガスがプロパンという以外は東京での生活と大差ないものでした。しかし、ソフィアート・ガーデンは別荘地(というか雑木林)であり、ほとんどの別荘地では上水道を自分で引き(井戸を掘り井戸水を利用する人も居ます)、下水は私ども同様の浄化槽で戸別に処理することになります。電気や電話、ガスは家を作る人が必要に応じて導入することになります。
ソフィアート・ガーデンの、このような都会とは違う住まいの仕組みに、最初は戸惑いました。しかし、よく考えてみれば、人がほとんどいない地域では、各戸が自分の敷地内で下水の浄化処理を完結するしくみは合理的です。微生物により下水の分解をするため、合成洗剤などの薬剤に対する味方もシビアになり、排水そのものへの考え方も責任感が伴って厳しくなります。なにしろ、自分の家の中で処理を完結するのですから、人ごとのようには行動できません。
逆に、都会であれば膨大な人がいるため各戸で行うことは占有面積的にも困難であり、社会インフラとして一括処理するしくみのほうが合理的でしょう。しかしその分、責任感が希薄になり、排水や薬剤に対する感受性も鈍くなってしまうのは仕方のないことでしょう。
ゴミ出しについても、都会住まいの頃とは全く違います。軽井沢に住むようになってからは、「生ゴミ」を出したことがほとんどありません。すべて自宅内の発酵装置(というのは大げさですがバケツに菌を入れて発酵させるもの)で処理した後、土に埋めて有機肥料として使用します。その際には、落ち葉と木酢と薪ストーブの灰を混ぜて土に埋めますので、臭いは全くありません。やがてフカフカの肥料になります。
軽井沢町のゴミ出しは、とても決まり事が多く、分別の種類も他の地域より細かいのですが、車で少し行けばゴミ集積所がありますので、集積所の稼働日時であれば、いつでもゴミを持ち込むことが出来ます。したがって、地域のいわゆるゴミ置き場は車を使わない年配の世帯の利用が中心であり、私どもは使ったことがありません。普段の生活に車を使う人の多くは自分で都合のいいときに集積所まで持ち込む人が多いでしょう。
生ゴミがないので、ゴミ出しは一ヶ月に1度するかしないか、というぐらい少ない頻度です。いわゆる資源ゴミも、新聞紙や牛乳パックは薪ストーブの焚き付けに必需品ですのでゴミ扱いなんてもったいないですし、魚や肉の入ったプラスチックトレーは洗ってスーパーなどで回収ボックスに入れるだけですので、都会生活に比べてほとんどゴミの出ない暮らしをしています。
こうして、生活が変わると意識が変わり、食べ物が変わってきます。かつて蕎麦を食べることがほとんどなかった私どもですが、こちらに来てからは蕎麦が大好きになりました。普段はほとんど外食しない私どもですが、今では、唯一、外食するとすれば蕎麦を食べに行く、というほどの蕎麦好きです。当地の気候風土にあっているのか、蕎麦を食べると元気になります。逆に肉食をあまりしなくなりました。信州牛もたいへんおいしいとは思いますが、山菜や魚、野菜などのさっぱりとしたものを好むようになりました。
そして近隣の野菜や果物の産地から直接おいしいものを安く入手できるので、季節の旬に敏感になりました。暦を見ながら「そろそろ杏が(プルーンが、胡桃が)出回る頃だ」ということで、旬を念頭に置いて、おいしい野菜や果物の登場を待ち構えています。
こうした、ひと昔前なら誰もが持っていた、ごく普通の感覚を強く意識しながら一年のサイクルを生活するうちに、四季のめぐみと大地の恵みへの感謝の念が日増しに強くなっていくのを感じております。
食は命を食する行為であって、エネルギーや成分を取るだけの行為ではないはずです。命である以上、鮮度と旬が大事だとつくづく感じますし、実際に新鮮な旬のものをいただくと、少量であっても満たされた感じがします。料理している間に目や手で栄養をとったような気持ちになることもあります。
流通という文明の恵みは確かにありますが、それへの依存が過ぎれば、旬を忘れ、防腐剤や防かび剤などの薬品に頼ることに疑問を持たず、世界中のおいしいものが手に入る喜びと引き替えに身近にある真の幸せに気がつかないことになってしまわないかと、昨今の食のあり方に私は大いに疑問を持っています。
やがてグローバル化の名の下、便利さと安さがなによりも優先する価値観となれば、とどまるところをしらない資本主義の暴力は、大事な農業や漁業などの第一次産業を疲弊させてしまいかねません。気がついたときは、大事な食べ物や水がすべて外国の特定勢力に握られていた、ということになれば、どうして幸せに生きていけましょうか。
現に、かつて安全安心な食べ物を私たちに与え続けてきた日本国内のすばらしい農業地帯が、エネルギー利権をめぐる汚染の危機にさらされる今日、良識をもった人ほど、食べる人と作る人の双方がともに、食の安全について不安と疲労感に悩まされる日々を送っているのではないか、と心が痛みます。
ガーデンの小鳥たちは、盛んに虫をくわえて巣箱に出入りし、巣立ち間近のヒナたちにおいしい栄養のある食べ物を与えています。
食は命であり、今の世代とともに、将来の世代を担う大事なかけがえのないものです。身近にある虫や草木の種子などを食べ、ヒナに与えて育て、元気に幸せに飛び回る小鳥たちのように、私どもも、身近にあるおいしい旬のものを食べることで元気に幸せに活動したい、そういう思いがします。
ソフィアート ・ ガーデン物語
有限会社ソフィアート 長野県軽井沢町長倉 2082-4
関連する物語
>> 第42話「旬を食べる 1」
>> 第43話「旬を食べる 2」
>> 第44話「旬を食べる 3」
>> 第53話「野菜三昧」
Copyright (C) 2003-2012 Sophiart Inc. All Rights Reserved.