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■第31話 「土地の責任」 2012年5月22日
植物を観察するとき、ポイントがいくつかあります。
葉や枝、花や実などの他に、冬は冬芽もありますし、秋の落ち葉の観察もあります。また虫に食われた跡や、どんな虫がつくか、どのような鳥が好むかなど、他の生きものとの関わりにおいて観察する方法もあります。
たとえば、植物では草か、木か。草なら一年草か多年草か。二年越しに育つ植物もあります(ムラサキケマンやホタルブクロなど)。
葉や枝の付き方が対生(二つペア)か互生(互い違い)か、輪生(茎を囲むように)か。
コクサギ型葉序(2枚ずつ交互)というめずらしいものもあります。
ソフィアート・ガーデンをはじめ、軽井沢は多くの場所でコクサギが群生していますので、コクサギの観察をしたい場合は最適です。
コクサギは軽井沢の自生植物ですし、香りもよく、葉の照りが緑陰に映えるので、旧軽井沢の古い別荘地などでは生け垣がわりに植えている(あるいは勝手に生えてきた)家も多く見かけます。
移植は容易ですが、倒れやすく、また倒れればその枝や幹から根が生えて適当に伸びていくので、単独での形はあまり格好良くはありません。互いにもたれ合う群生スタイルで植えると自然の風情で良いでしょう。
落葉樹か、常緑樹かもチェックポイントです。春、秋、冬はすぐ見分けがつきますし、夏でも落ち葉が周りにあれば推測できます。
葉の形(倒卵形、円形、針形、線形など)、葉のぎざぎざ(鋸歯)の有無、綿毛の有無、色、葉の照り、葉脈など基本的な外見の違いを記憶しておきます。
また、安全性が確認できることが前提ですが、場合によっては匂いや味などの五感を活用して記憶します。
クワ(桑)やハクウンボク(白雲木)の葉のように形や大きさなどに個体差の大きなものもありますし、育った環境によって同じ種でもかなり違うことも多いですので、なるべく多様な情報を記憶に刻んでいきます。
専門知識を持っている詳しい人には、このような植物観察のポイントは言わずもがなのことではありますが、私と同じような、あまり(全く)詳しくない人が自分で調べていくための一助になるかもしれません。また、こうした視点を持てば、継続的に調べることによって知識や関連する事柄がどんどん増えていくことでしょう。
何しろ、道ばたの草や木には名札はついておりませんので、このような関心の持ち方で初めての旅行先や日々の散歩の見慣れた風景、仕事途中の道中などで大いに楽しめます。路傍の「邪魔な」草や虫が、案外奥深いメッセージを発していることに気がつけば、安易に除草剤を使わなくなるでしょう。
私どもは、ガーデンや自宅の植物については、時には山菜として食べるために採取しますし、庭の生えてほしくない場所に生える場合は、抜いたり敷地内で移し替えたり、草刈りしたりなど、適当に気楽に植物と付き合っております。厳密な性格ではないので、自分の出来る範囲で自然体で接しております。
しかし、ソフィアート・ガーデンにおいては、落ち葉を燃やすことは私どもはしません。森の中の微生物に分解してもらう方法で土に還ればいい、という考え方をしています。
昔ながらの落ち葉焚きの必要性と風情は、それなりには理解していますし、ガーデンで大量に発生する落ち「枝」やマツボックリは、よく乾燥させて薪ストーブで焚き付けに使います。(
第4話「木のエネルギー」
)
そしてガーデンにはエゾエノキの大木があり、このエノキの葉だけに卵を産みつける虫として「オオムラサキ」がいます。日本の国蝶ですのでご存じの方も多いでしょうが、大きな美しい紫の蝶です。その卵を保存する意味でも燃やさないようにしております。実際にオオムラサキはガーデン付近を飛んでいるようです。(
>>ガーデンで見つけたオオムラサキの羽
)
このように、その土地のその植物を食樹、食草にすることでしか生きていけない生きものがいます。植生というのは自然の根幹を担っており、食物連鎖の基礎を築いています。したがって、ソフィアート・ガーデンおよび近隣の、自生植物の宝庫のような場所では、安易に外来種の宿根草を持ち込んだりしないよう注意しています。一年草は一年で終わるので、まだましなほうですが、これも繁殖力が強いものになると自然植生を狂わせる原因になります。
植物の好きな人は、どうしても欲しいものにこだわってしまい、その行為の及ぼす影響までは考えないところがあります。住宅地ならそれはすてきな趣味でしょうが、軽井沢の山林では考え方を改めなければならないシーンをよく目にします。やはり、人間だけの土地ではないからです。
土地の所有、というものをどう考えるのかは、人それぞれ違うでしょうが、私どもは「責任」として考えます。周りの人的、社会的な環境も含め、土地にかかわるあらゆる環境への責任です。
土地の所有というのは、相続や不動産購入というお金を払い、固定資産税も払い続け、さらに重い責任まで担う、という大変面倒なものです。しかし、その面倒に代えがたい価値を大事に守る、ということで国土が成り立っていると思います。
もし、土地の所有者が「所有している=何をしてもよい」という考えで、責任より権利を自由に主張し、行使するのであれば、国土というものは崩壊するのではないでしょうか。
土地の所有権を認めていない国家もありますし、国内外の人や法人間などの自由な売買がなりたつ所有権がある国でも、土地は「不動産」という資産である前に、国土であります。そもそも土地は、人間だけのものではありません。
微生物も含め、目に見えない生きものの集合体が集い、そこで生きている場ですし、国土として大地が連続しているわけですから、土地の大小にかかわらず、所有者の責任は無限と言っていいほど大きなものです。
海や山、水、空気も含め国土を汚し、自分さえよければ何をしても良い、と考える人や法人などが許されるはずがありません。
昨今の土地をめぐる考え方を見聞きすると、土地に対する責任感の欠如や視野の狭さに驚きを覚えることがしばしばあります。本来、大自然は強く人は弱いものですが、弱いはずの人間が力を持ちすぎてしまうと、愚かで傲慢で有害な存在となってしまうようです。しかし、そのような中でも、必死で土地への責任と愛を全うしているすばらしい人々には本当に頭が下がります。
土地の売買がさかんな軽井沢でも、不動産業者が広大な土地を売らんがために、森林を丸坊主に造成する、ということを未だに目にします。軽井沢は軟弱地盤も多く、1910年には大洪水と山津波の被害の記録が残っています。そのような無分別な造成は隣接した地域に住む人々の生命をも危険にさらすことにもなります。
住まいとして、安らぎの場として、長年にわたりこの地を大事にしてきた人々、また保養地として観光地として、軽井沢らしさを求めてやってくる人々が、がっかりするような土地への行為を見るたびに恥ずかしくなります。軽井沢の別荘地や森林という土地の利用は、一般的な住宅地の造成とは意味が全く違います。
日差しと利便性を求めるなら、最適な土地はたくさんあります。軽井沢は浅間もよく噴火しますし、もっと安全で開発に手のかからない土地を選べばいいのになあ、と思います。たぶん、見栄やブランド「信仰」に支えられているバブル的な感覚で所有する人を狙っているのでしょう。
金儲けやファッションの道具としてしか土地を見ていない人間(集団)は、いつかそのつけを自分自身が払うことになるのは必至です。さらに当事者だけでなく、罪のない多くの人や生きものたちまで犠牲になってしまいます。
土地への責任を自覚するどころか、敬意のかけらもない、むごい有様を見るたび、「人間がそんなに偉いのか?」と問うてみたくなります。
『 ソフィアート・ガーデン物語 』 第31話 「土地の責任」
有限会社ソフィアート
スタッフM( 竺原 みき )
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