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■第98話 「旅」 2012年11月18日 番外編(その12)

軽井沢はまだ雪は降りません 「旅」といえば旅行鞄を手に楽しむ旅を思い浮かべるのが普通でしょう。しかし、何も物見遊山ばかりが旅ではありません。国内外を問わず、出張や転勤、留学など、仕事や勉強のための精神的なショックを伴うような異文化体験も、広い意味での「旅」かもしれません。

私が故郷を離れて大学進学後に就職する際に、母親は私に対して「あなたは旅に出ているのだから体に十分気をつけなさい」と気遣いました。故郷を離れて一人で異文化(?)の中で生活する娘の状態を、親からすれば「旅」と感じるのだなあと思ったことがあります。

そのとき、「旅」というのは浮かれた物見遊山などではなく、むしろ決別の覚悟を伴う、成長には必須の通過儀礼のように感じたことを思い出します。緊張感や孤独感を抱きつつ、同時に(旅なのだから)「いつでも帰る場所がある」という安心感もありました。

『おくのほそ道』で芭蕉が記した「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」という有名なことばは、旅というものの本来の意味を示すものでしょう。

紅葉おさめ 「旅」と普段の生活との違いは、自分が動くか周りが動くかの違いでしかない、と思うこともあります。自分か周りかのどちらか(あるいは双方)が動きながら、一期一会の中で生きることが「旅」だとすれば、生きることそのものが、実は旅なのかもしれません。

家でじっとしているつもりでも、窓の外で木の葉は美しく紅葉し、ほどなく散っていきます。その様を眺めていれば季節が動いているのを知らないわけにはいきません。

細かな木の葉を乗せて流れる川面を眺めていても、一時として留まることはありません。ソフィアート・ガーデンの小鳥たちも飛翔を楽しむかのような運動会を繰り広げています。私がじっと動かずにいても、周りは常に動きを止めることはありません。

一方で旅先においては、私自身は常に動いています。周りの景色は私の移動する先々で新たな展開を見せ、新たな人との出会いがあります。しかし、いくら心惹かれるものがあったとしても、目の前を通り過ぎていく景色や出会いは私の帰るべき場所ではありません。

「旅」というものは、帰る場所を知っていれば楽しいものですが、帰る場所がなければたいへん心細く寂しいものでしょう。 旅先の私は、既知の世界との異文化体験に驚き、不安になったりおもしろがったりと大忙しです。体だけでなく心までも常に動いているので、ときには自分自身を見失うことや自信を喪失することもあるかもしれません。しかしそういうときは、普段の私よりも自分らしくあろうとして、心の根を広げようという働きが活発になるときでもあります。

新国立美術館の独立展









初めて見る景色や人を理解し消化するために、私自身の知識や感覚が総動員されて心の中で懸命に根を広げ、木を育て、やがて不動の根幹を形づくっていきます。ピンチを克服したり、自分の良さに気づいたり、大きく成長しようとする大切なときでもあります。旅は気づきや驚きを通して人を育ててくれます。心の成長は、旅の醍醐味とも言えるでしょう。

神戸は訪れるたびに何故かほっとします 安易に人から教わるのではなく、先入観なく、一人旅の中でもちまえの五感や知性を総動員して見えてくるものは、本物だろうと思います。また、そうした旅から得たものは、今の自分自身を支える基軸になっていることに気づかされます。人に動かされるのではなく自らで動くことで、心の中に自分が帰るべき場所が育つ、というのも旅の醍醐味の一つでしょう。

私は進学を期に上京してから今に至るまで、日本全国のすべての都道府県を旅する機会がありました。学生時代は民俗学や文化人類学に興味があり、大学でも文化人類学の教授に個人的に志願して、他の大学の院生や社会人と一緒にフィールドワークにも参加しました。

基本的には一人旅が好きで、若い頃は旅程も決めずほとんど下調べもせずに気の向くままに無謀な旅を重ねてきました。安全な日本国内だからこそ許された旅のスタイルでしょう。

大阪の町には底力が溢れている 初めて行く場所であっても、私は地図やガイドブックというものをほとんど参考にしません。できるだけ荷物を持たず身軽になって、全身の感覚を研ぎ澄まして、土地の気を察して歩き回るスタイルで旅をします。直感力の鍛錬の遊びだと思って、人や自然、街並みの全てから発せられるメッセージを全身で受け取りながら歩いて行きます。もし危険を察知したら近寄らずに避けるのが基本ですが、好奇心から遠巻きに観察することもあります。

どのような人が住んでいるか、何を職業とする人が多いか、人々や町の表情を心の眼で静かに観察しながら、なるべく町に溶け込むように自然な面持ちで歩きます。知らない町だからといってキョロキョロとしたり、むやみに民家にカメラを向けたりは絶対にしません。そこで生活している人に不愉快な思いをさせず、敬意を払いながら観察します。

京都の奥深さは計り知れない 道がわからなくても、直感(当てずっぽう)で迷いなくさっさと歩きますので、都市部などではよく旅行者らしき人に道を聞かれます。もっとも私自身が旅人で道を知らないため、役に立つことができないのですが。

この秋は仕事の関係で東京や神戸、京都、大阪などで過ごす日が続きました。いずれの地域も、経済も活況で国内外の旅行者も多く、街が活気に満ちています。旅人の目で素直に見ると、日本は魅力があり、何度でも訪れたくなる素晴らしい国であろうと実感します。

京都では、伝統産業に従事する人や若い人たちと話をして、良き未来を信じる真面目で責任感溢れる発言や生き方に、何とも言えぬ安心感と日本人の底力を見る思いがしました。

私が出会う人がたまたまそういう人だけなのかもしれません。しかしマスメディアで報道されるような暗い日本の未来を描く事柄は、限定された(あるいは意図的な?)ものであって、現実の世界はもっと力強くたくましく、明るいものだと思います。

慣れ親しんだ日常に安住してしまうと、物事を相対化したり疑ったりする視点を失いがちです。暗く曇ったメガネを通して見た虚像に一喜一憂することもあるでしょう。旅によって、人は惰性に眠る目を覚まし、現実の声と姿をしっかりこの目で観る、という原点に戻ることができます。自分が帰るべき場所を自覚するために、旅は私にとって不可欠のものです。

ソフィアート ・ ガーデン物語
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