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■第88話 「物語の意味 −自然との対話−」 2012年10月2日

蝶が生きる厳しさが羽に現われています 自然への興味や関心というものは、どのようにして生まれ、育まれていくのでしょう。 ある場所で生まれ育ち、その環境下で生涯を過ごすのであれば、身の回りの自然をことさら対象として意識することは少ないかもしれません。普段の関心は、日々の仕事や生活の充実などにむかうでしょう。

しかし、その人が何かのきっかけで住み慣れた環境を離れることがあれば、今まで意識の対象にさえのぼらなかった「自然」というものが、突如として目の前に現われるのではないでしょうか。今まで自分にとって当たり前であったことが、当たり前でなくなる時、そして周りの人々にとっては「当たり前でない」ことのほうが「当たり前」であると気がついたとき、この驚きを引き金にいろいろなことが意識されるようになります。

その時、人は孤独に悩むこともあるでしょう。新しい環境に早く馴染もうとして、適応することに全力で取り組むあまり、今までのあり方を否定し、忘れ去る場合もあるでしょう。変化の落差が激しいほど、その適応のための努力も大きなものになると思います。

他人と違うことに恐れや不安を抱く人は、どうしても安心を求めるために過剰に環境と同化しようとして、健全な違和感を消し去ろうとするかもしれません。しかしこの違和感こそ、人の成長や成熟にとって無くてはならない大切なものではないでしょうか。

イガは靴で踏んで外します 心にわき立つ違和感は、その人を、「どうして?」「なぜ?」を連発していた子供の頃に戻します。子供の頃に「なぜ?」を連発していた、あの素直な心のままに問いかけることを、変化を経験するたびに、何歳になっても忘れてはいけないと思います。

ところで「なぜ?」と訊いても、「答え」らしきものを知れば、それですぐさま納得してしまう、ということでは、せっかくの健全な違和感が生かされずに終わってしまいます。

「答え」は、他人(先生や親、先輩、権威、国家など・・・)から教えてもらえば、それで終わり、ということではなく、自分自身で探すものではないでしょうか。 そして、自らが答えを探す旅を楽しむことのできる人になることが、教育の大事な側面であろうと私は考えます。

私にとって、そのようなことを考えるきっかけを与えてくれた一冊の書物があります。中村登流著『 森のひびき −わたしと小鳥との対話 』(大日本図書 大日本ジュニア・ノンフィクション 1972年)です。中村登流氏は日本の鳥類学者(上越教育大学名誉教授)で、すでに故人となっておられます。中村氏の書籍は、この他にいくつか所有しておりますが、子ども向けに書かれたこの本のまえがきにあることばこそ、鳥類学者として、中村氏が鳥(そして自然)に向き合う本質を表現しています。

子ども向けの本でありながら、否、子供向けだからこそ、妥協のない姿勢で本当に大切なメッセージを、レベルを落とすことなく真摯に語りかける姿には、教育者のあるべき姿を見る思いがします。長いのですが、本がすでに絶版で、入手も困難ですので、あえてまえがきの全文を引用します。

ツタウルシは触らなければ大丈夫  「冬の村里を歩くと、山すその森でヒヨドリが、のどもさけそうな声をはりあげて、群らがりさわいでいるのに出あいます。どうして、あんなに群らがってさわぐのだろう、とかんたんにたずねないでください。何でもかんたんに質問することは、たいへんなまちがいです。まして、その質問に答えることのできないおとなや研究者にがっかりするなど、もっと大きなまちがいです。
 今どき、ヒヨドリがなぜ群れてさわぐのか答えられる人はいないでしょう。自然の生き物たちの生活には、わからないことがいっぱいです。たぶん、ヒヨドリのさわぎに気づいただけでも大したものでしょう。その答えは、疑問をいだいた人が答えてみるよりほかに、しようがありません。疑問が深ければ深いほど、いつかは答えられるときが来るでしょう。
 この本は、エナガという、ありふれた鳥の群れのことを書いたものです。群れていることのふしぎさに引かれて、ついつい深入りしていく物語りです。自然のおりなす風景の中で、その鳥は、あるときには雰囲気の中にとけこみ、あるときには主役となって、わたしの心を持ちはこびました。そしてまた、生命の科学への何がしかのかけ橋ともなり、生命のあり方とありかを語りかける場ともなりました。どうして群れているのか、という疑問に心を売りわたして、長い年月がたちました。その間、何とかして時間をつくっては、鳥を追いました。
 とてもわかりそうもない問題が、時の流れにそって起こりつづけるさまざまな世相と、その現代人の問題と、同じものであることが、しだいにわかって来ます。鳥は自然のものとして、むこう側にいるように見えていて、実は、それだけではないのです。現代を生きている自分の中に、その鳥は、たえず映っていたのです。
 おそらく、この本を読むみなさんが、いつの日か、鳥や生命を見つめるとき、わたしとちがう時代を生きる自分自身を、その生命の中に見つけることでしょう。どうして生まれて来たのかと、そしてどうして生きるのだろうかと、さまよい、どうして恋をするのだろうかと考えこむとき、鳥や生命は、ただひたすらなすがたを森の中へうずめつくして行きます。その深ぶかとした自然のふところと、わたしの対話をこれからお話ししましょう。」

おいしくないので私は食べません あとがきには、次のようにあります。

「自分は、自然の中で起こっている現象を見て、何をつくり出してしまうかわかったものではありません。実は、自然の中に起こっているさまざまな現象の中から、自分を引きつけるものを引き出しているともいえるのです。だから、あまりにも多い諸現象の中で、まい子になってしまいやすいのです。」
「この本でお伝えしようと思ったことは、自然の諸現象の山の中へはいって行く、そのときの状態でした。まよいがなら、自分の主題に何回ももどっては、また道を捜す、その原始的な自分の出発をえがいてみました。」



外来種ですが鳥が食べて糞で増やします 迷路の中でさがし続ける姿、自然との対話を、中村氏は本文中で「物語り」と呼んでいます。この本に出会ったのは何年も前ですが、いま、私自身が「ソフィアート・ガーデン物語」と題して書き連ねていく中で、何年ぶりかに読み直してみました。そして改めて、「物語り」ということばのもつ意味に気づかされました。

自然のなぞかけに心を奪われ、その答えをさがし求め続け、自然の懐に入り込んで霧のような迷路をさまよいながらも何度も何度も自分自身の「なぜ?」の原点に立ち戻り、自らを虜にしてやまない奥深い自然からの語りかけを、自らのことばで筆記していきたい思い、これが「物語り」ということばのもつ意味なのでしょう。

台風被害がなくてほっとしました 生まれ育った温暖な南国の環境とは全く違う、厳しくも美しい軽井沢の自然にふれて、私はこれまで意識にのぼらなかった「自然」への興味や関心をもち、「なぜ、どうして」を探る旅の虜になってしまいました。

日々深まっていく「なぜ?」を繰り返し、誰も教えてくれる人がいない中で、心をこめて見つめ書くことを繰り返すうちに、自分自身で答えをみつける旅そのものが楽しい、ということを知りました。

自然からのかすかな語りかけが聴こえた気がする私の心の中は、その声の語る「物語」で溢れており、どうしてもこの「物語」を書き留めなければ心が落ち着かないのです。

ソフィアート ・ ガーデン物語
有限会社ソフィアート スタッフM( 竺原 みき )

 
 
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