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■第82話 「草を刈る? −刈る理由、刈らない理由−」 2012年9月17日

瑠璃色の実が目をひく なぜ草は生えるのでしょう。 土があるから、そしてそこに種があるから、ということでしょう。加えて水や日当たり、温度など、芽生えに適した条件が合致して初めて可能になります。

土はシードバンクと呼ばれるように、さまざまな種をその中に蓄えています。日本のような雨の多い温暖な気候のもとでは、健康な土は裸を嫌って、必ず何かしらの草をまとうようになります。

健康でない土、たとえば除草剤を撒かれたり、人や車で踏み固められた土には、草は簡単には生えることができません。 それでも草の生命力は強く、弱々しい根毛はわずかな隙間を穿って土をほぐしながら根を張り、水もほとんどない場所で育とうとします。

植物の芽生えは土をほぐし、空気や水を含み柔らかくなり、草が枯れてのちは有機物となってミミズやモグラ、昆虫や微生物、細菌などの食べ物になります。こうして土は、生命のない、ただの鉱物のつぶから、長い時間を経て生きものの集う場になります。

コブシの実の形は「拳」の名前の由来 木や草が育ち、生きものが自分の営みに夢中になる結果、土はますます肥えてフカフカになり、その土地の気候風土に合致した四季の様相をみせながら、だんだんと自然植生に向かって成熟していきます。

造成などで裸の土がむきだしになった土地が、その土地本来の植生に落ち着くまでの変遷を考えるとき、生態学者の宮脇昭氏がドイツのラインホルト・チュクセン教授のもとで学び日本に紹介した「潜在自然植生」の概念はとても参考になります。宮脇博士の本は何冊か持っており、図書館で『日本植生誌』(全10巻、至文堂 1980-89)も目を通しました。改めて、植生は日本国内をひとくくりに捉えることはできないことに気づかされます。

日本国土の天然林は、鎮守の森にあるような照葉樹林が多いのですが、軽井沢は植林されたカラマツやウラジロモミを除いては、コナラやクリなどの落葉広葉樹が主流です。また、別荘地は純然とした自然林ではなく、人の手のはいった二次林です。秋に落葉し、冬から春にかけては、林床が明るくなり、春は早春のスプリングエフェメラルに始まり、初夏にかけて山野草がにぎわいます。

もし、見渡す限り草が一本も生えない砂漠であったら・・・。そんな環境に、生きものは耐えられるでしょうか。
草が生えるのは環境が健全な証でもあります。野生の生きものは、こうした健全な自然を利用して生き抜くことだけを考えます。草刈りをする野生動物はいません。しかし、人は草を刈ります。

また来年おいしくミツバをいただきましょう! では、なぜ人は草を刈るのでしょう。 そこにある草が邪魔だから、ということでしょうか。歩くのに邪魔、育てているもの(農作物や花、芝生など)の育成に邪魔、といった理由です。人間社会においては合理的な理由でしょう。

こうした実利的な理由のほかに、別の意図もあるように思えます。
たとえば、「働き者(勤勉)と思われたいから 」、「邪魔ではないけど、草がない方がきれいだから 」、という場合も少なくないでしょう。
また、「草は害悪」とでも思っているのか、草を敵視する人も見かけます。

では、先に仮定した理由、すなわち「働き者」に思われたい人は、なぜそう思われたいのか、「きれいだから」という人は、なぜ草が生えていないと、きれいと考えるのか、その背景を想像してみましょう。

薪の束を背負って本を読む、二宮尊徳の銅像が、ある本屋さんの玄関口にあります。かつて(今でも?)道徳心を植え込まれたまじめな人なら誰でも知っている姿です。本屋さんなので、本を読む銅像はそれだけでアピールになりますが、それよりもあの銅像は、勤勉の美徳の象徴です。店先を通るたびに、「勤勉にならなければ」と人々に反省と自覚を促すメッセージでしょうか。

ピンクのキノコで、緑の中でめだちます 刈払機をブンブンと鳴らし、草刈りにいそしむ姿は、働き者であることを外に向けてアピールするには有効です。
草刈りや草むしりは農家の重要な仕事でもあるでしょうから、農家の多い地域では、草刈りこそ、 働き者かどうかをはかる物差しといえるのではないでしょうか。

草刈りが必ずしも必要なことと考えない私などは、仮に、そのような物差しをあてると「怠けもの」となるでしょう。人畜無害な怠けもので、人生を楽しむのなら、それもよしです。

そして、草がないほうがきれい、という意識は、洗練された世界への憧れかもしれません。ところが東京丸の内などの洗練された街並みで、田舎なら雑草として抜かれてしまうイネ科の草を街路樹の下草にして、野趣を演出しているのを見かけることが多くなりました。 高級ブティックやオフィスが立ち並び、クールな装いの人々が颯爽と行き交う華やかな通りに、寄せ植えにされた「 雑草 」がすまして鎮座する、というのはおもしろいことですし、妙に似合っています。

藪蚊のストーカー行為に悩まされます 自宅のある場所は住宅地ですので、ほどほどに草刈りもします。エンジン式の刈払機は便利かもしれませんが、騒音が嫌いですし近所迷惑なので、手と刃物で静かに草を刈ります。

繁殖力の強い宿根草の外来種はそっと抜くこともありますが、土がほぐれてむき出しなると、せっかく落ち着いた草生が崩れて帰化植物などが生えてしまいます。土を崩さず、伸びてきたら邪魔なところだけ軽く刈ります。

一方、ソフィアート・ガーデンは自然豊かな人の少ない場所ですので、夏場は手入れに時間をかけません。冬までには草は枯れて跡形もなくなりますので、茂ってきた草は、歩くのに邪魔な場所だけ軽く刈り、それ以外は放置します。

野鳥の中には、ホオジロやスズメなど草の実を食べるものもいて、虫の少なくなるこれからの季節、イネ科などのいわゆる「雑草」の草の実は、彼らの大切な糧になります。むやみに草刈することは野鳥の糧を奪うことにもなり、野鳥のための庭というガーデンの趣旨に反します。 また、草紅葉( くさもみじ )といって、 秋の草が黄色や赤や茶に色を変える姿も、風情があっていいものです。

場所によってスギゴケ?とコツボゴケ?ハイゴケ?などいろいろ 高木に囲まれたソフィアート・ガーデンのような環境は、土を裸にせずに最小限の手を加えれば、土が成熟して落ち着き、苔が生えて山野草が芽吹くようになります。土は、覆うものがない裸の状態を嫌いますので、むき出しにせず落ち葉をかぶせておくだけでも、草はあまり生えてきません。

この時期、草刈りをしない一番の理由は、なんと言っても、夏場から秋口にかけての薮蚊やブヨの多さです。彼らがこぞって「草刈するな!」と忠告している以上、私どもは素直に従います。

できるだけ手をかけず、草刈をせずに、楽(らく)に、いきいきと生命力に溢れる成熟した庭にするにはどうすればよいか。楽しく怠けるために、「勤勉に」考えることにします。

ソフィアート ・ ガーデン物語
有限会社ソフィアート 長野県軽井沢町長倉 2082-4


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